ちゃーちゃん@中国瀋陽

オンライン中国語講師|中国語ネイティブの発音と、より楽しく学べる方法を模索中|漫才や“脱口秀”など、面白い事(言葉遊び)が大好きな関西人

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「唐詩朗読会」に参加。~『始聞秋風』劉禹錫:感想と作品の自己満足の意訳を併せてどうぞ!~

先週土曜の8月25日、以前ブログでもご紹介した「唐詩朗読会」に参加した。

本日はその様子、ならびに私が選んだ唐詩について、

お恥ずかしながら私なりの意訳、そして選択の理由を織り込みながら、

レポートしてみたいと思う。

 


 

Zoomというネット回線を使っての音読会。

そのため参加者は日本から2名、中国から1名、そしてなんとフィリピンから1名の

合計4名で開催された。

どの方も中華圏に滞在経験があり、中国語レベルが高く中国国情もよく御存じで、

私がひとたび話しだすと、皆さんが興味をもって聞いてくださるのが印象的だった。

 

みなさんそれぞれ作品を選ばれ、心地の良い中国語で音読されていく。

まずフィリピンから『静夜思』が軽快に届く。

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瀋陽の夏は短く、すでに秋の気配がしている。

またしばらく帰っていない故郷の日本を思っては、感慨にふける。

詩と今の私の状況と重なり、一気に唐詩の世界に入り込む。

 

さらにこちらの『静夜思』は、留学して初めてのテストで朗読した思い出の詩。

必死になって勉強したあの頃が思い出され、故郷を思う気持ちとは別に、

第二の故郷である北京を思い出し、さらにグッと感情が高まる。

感想を聞かれても、いろいろな感情が重なり「フ~」というため息しか出てこない。

 

二番手は日本から、日本人にもおなじみの『春暁』が心地よく流れてくる。

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小学生の時、漢文で春暁を学んでいるときに、

まさか30年後に中国で生活しているとは、誰が予想しただろうか?

 

また中国人と話をしていると、よく唐詩の引用が用いられる。

それもキーポイントとなるフレーズにさらりと引用してくるので、

会話全体の真の意味が、取れなくなってしまうこともある。

春暁を聞きながら、「やはり中国で生きていくには、唐詩も必須だな」と改めて思う。

 

そして三番手に、私の順番が回ってくる。選んだ作品はこちら。 

始闻秋风 刘禹锡
 昔看黄菊与君别,今听玄蝉我却回。
 五夜飕飗枕前觉,一年颜状镜中来。
 马思边草拳毛动,雕眄青云睡眼开。
 天地肃清堪四望,为君扶病上高台。

【意訳】

 去年菊が咲いた頃、私はあなた(=秋風)に別れを告げ、

 今年蝉の鳴き声が聞こえた時、私はまたあなたの傍に参りました。

 夜がまもなく明ける頃、あなたが部屋に入ってくる音を耳にし、

 その軽やかな足音で、あなたが相変わらずお若くお元気なのを感じました。

 私と言えば鏡に映った己の姿を見て、この一年でまた一層老いたと

 思っていたところです。

 駿馬が、周りの成長した草々を大口を開けてむさぼりついたあと、

 力強く鬣を振り乱し、大地を蹴って駆けまわるような、そんな厳かで好天、

 晴朗の秋。

 また鷹が清澄な青空に浮かぶ雲の中、眠りにつくことなく、目を見開き、

 翼を広げ空高く舞い上がるような、そんな天高き爽やかな秋。

 私は秋の使者であるあなたに惚れ込み、また秋そのものを崇拝しています。

 あなたは成熟して、厳しいお方ですが、嘘偽りなく、優秀な結果を出せる

 素晴らしいお方です。あなたのために、今は病に冒されてはいますが、

 走り始めた駿馬のように、空高く羽ばたく鷲のように、

 私はもう一度己を奮い立たせ、あなたと一緒に高みを目指し、遥か彼方を眺め、

 まだ見ぬ明日のため、精一杯奮闘したいと思います。

 (※作者の秋に対する思いを想像して意訳している部分も含むため、私の成長により感じ方が異なる

  可能性があり、こちらのページを開かれるたびに意訳が異なる場合があります。)

 

私がこの唐詩を選んだのは、2つの理由がある。

 ・季節がら、秋を表現したもの

 ・今月気分が沈む出来事が起こり、そんな自分を鼓舞できるもの

 

この2つを満たすべく、作品選出の際、中国検索エンジン百度

唐詩 激励」と入力し、かかかった検索の中から一作品ずつ吟味していき

この詩に巡り合ったのある。

 

秋は春のように、麗らかさや瑞々しさという華やかさには欠けてしまう季節で    

どちらかと言うと、空気が澄んでいることもあり、ピンと張りつめた緊張感や    

どっしりとした厳かな感覚があるように、私は感じている。

また寒い冬を控え、ある意味静粛で、ある意味どこかもの悲しさを感じる冷たさも

感じさせてしまうそんな季節である。それは冷静さを備えた鋭い人のように。

その一方で、「収穫、実りの秋」として、成果を出す成熟した大人という側面も

持ち合わせている気がしてならない。

 

「四十不惑

私も40代に突入し、若いころのように夢を抱き、すべてを手に入れたいと

がむしゃらにもがき、全速力で走ることも苦しくなり、

良い意味でも悪い意味でも、取捨選択をしなければならない時期がきた。

しかしその選択は、ある意味覚悟であり、決断である。

始めから選択肢を一つに選べなかったとしても、一つ、また一つと選択肢を消し、

絞っていくことも、大きな意味での「不惑」ではないだろうか。

 

作者である劉禹錫は病を患いながらも、決して現状に失望するわけでなく、

大好きな秋、秋風に「自分はあきらめない、そしてさらに上を目指していく」と誓う。

 

その姿が、今の自分の気持ちを代弁してくれているかのように思え、

この唐詩を選び、朗読会で発表した。

 

発表は、練習不足と気持ちののせ方を失敗し、実は自分での採点は60点ほど。

しかしこの悔しさが、「もっと中国語がうまくなりたい」と思う活力になる。

 

朗読会は、最後に日本から、講師が『九月九日忆山东兄弟』でトリを飾る。

朗読の前に、この詩は王維が17歳の時に故郷を思い詠んだもの、

旧暦の9月9日は重陽節と呼ばれ、その日はどんな意味があるか、

そもそも中国人にとって「9」と言う数字は、どんな意味をもつのか、という

予備知識に加え、この詩の現代訳をひも解いてくださった。

 

最後に朗読。やはり聞き惚れるほどの魅力を放つ。

 

その後、私のリベンジしたいという気持ちが伝わったのか

参加者全員で『始聞秋風』を朗読し、雑談、感想の発表をはさみ

唐詩音読会」は無事終了した。

 


 

このリンロン朗読会は、朗読はもちろんのことだが

一番の収穫は朗読する「楽しさ」を感じられることだ。

正直に告白すると、私はこの朗読会に参加するまで「音読」と呼ばれるものに

恐怖、嫌悪感さえ抱いていた。

しかしこの会への参加にあたり、朗読の練習をはじめ、

気が付けばすっかりとりこになっていた。

 

またその努力を認めていただいたことをはじめ、参加者全員が温かい目で見守り、

次のステージに上がろうとする気持ちを後押ししてくれることが、

非常にありがたく、そしてなにより心地よい。

 

語学学習は、孤独で長い道のりである。

レベルが上がれば上がる程、できないところに目が向き、だんだん苦しくなってくる。

それはまるで真っ暗な見ず知らずの夜道を、何の灯もなく歩いているかのようだ。

そんな自分に寄り添い、伴走し、ほのかな光を灯し導いてくれる会。

それがこのリンロン朗読会であるように、私は思っている。 

 

次回開催は9月15日(土曜)を予定しているそうだ。

朗読したい方、オブザーバーとして他の方の朗読を聞きたい方をはじめ、

国語学習に光を見出したい方、伴走相手を見つけたい方など、

どんな方でもにも、一度参加される価値は十分にあり、ぜひお勧めしたい会である。